こんにちはSMOKERです。
日本には、沢山の歴史深い「お城」があります。
日本三名城には「大阪城」「名古屋城」「姫路城」もしくは、「熊本城」ともいわれ、どの城を三名城に選ぶかは時代や定期により諸説があります。
ともあれ、どの「お城」にもかならず、「石垣」の上に成り立つのが日本のお城の特徴となっています。
その「石垣」には、石の特徴を知り尽くした職人達による、建設であった事に違いないのではないでしょうか。
今回、2016年の熊本地震により熊本城の石垣再建の為に一役買っている事で最注目されている「穴太衆(あのう)衆」。
その石積み技術「穴太(あのう)積み」を継承する15代穴太頭「粟田純徳(あわたすみのり)」さんに迫ってみます。
穴太(あのう)衆とは?
あと2日。☺️ https://t.co/OkOjbt6M1z
— 粟田建設@穴太衆【公式】 (@anoushu_) September 4, 2020
戦国時代に名を馳せた伝説の石積み職人といわれています。
自然にある石を加工しないまま積み上げ、石垣を作る。
この「野面積(のずらづみ)」という技法を得意とした職人集団。
滋賀県大津市坂本穴太(あのう)地区に暮していたことから、穴太(あのう)衆と呼ばれる石工(いしく)職人の事をいいます。
あの天下布武で名を馳せた「織田信長」にも召し抱えられていたといわれほどの職人集団であり、全国の城作りに多大なる影響を与えたとされています。
それだけの歴史を持ち、多くの武将から信頼も、厚かったとされると何か裏の顔「忍び」的な事もやっていそうな雰囲気もありそうですね。(あくまでも私見です。)
穴太(あのう)衆の関わるお城。
引用:株式会社粟田建設
安土城の築城によって全国に名を知られた「穴太衆」ですが、他にも有名な名城の築城にかかわっています。
江戸城(東京都)・大阪城(大阪府)・名古屋城(愛知県)・姫路城(兵庫県)・但馬竹田城(兵庫県)・伊賀上野城(三重県)などが挙げられます。
また、岩国城(山口県)や高知城(高知県)・熊本城(熊本県)の石垣の修復にも活躍されています。
一説には近世城郭(安土城以降江戸時代にかけて築かれた城)の8割ほどに「穴太衆」が関わっていたといわれるほど凄い人達なんです。
粟田純徳(すみのり)さんの生い立ち。
粟田家の長男として生まれ、中学卒業後すぐに13代の祖父が師となり修行を始めたそうです。
小さい頃から祖父の仕事場に遊びに行っていたという「粟田純徳(すみのり)」さんですが、自然とこの仕事をするのが当たり前と思っていたそうで、父親の反対を押し切り、自分で継ぐ事を決めたようです。
祖父には、基本的には昔の職人気質「見て盗め」を徹底され、「耳で聞いた事は3日で忘れる、体で覚えた事は一生忘れない」といつも言われていた。
また、とても厳しく指導され、教えられる内に技術を叩き込もうとしてくれていたそうです。
職人とは、自ら身につけた熟練の技術です、だからこそ簡単にはマネ出来ません。
そんな技術は日本には沢山あるはずですが、後継者不足も問題となっております。
今の若い人たちにも日本の伝統技術をもっと知ってもらう為にも、こういった「穴太(あのう)衆」のような歴史ある人達を、国全体で守っていかなればと強く思わせられました。
粟田純徳(すみのり)さんの会社の歴史。
引用:株式会社粟田建設
江戸時代初期 阿波屋喜兵衛創業
明治6年4月 屋号『桶万』に変更
昭和9年8月 粟田万喜三、13代目継承
昭和39年4月 社名『粟田建設』に変更
昭和39年4月 責任者に粟田純司就任
昭和47年10月 有限会社に変更
粟田純司社長就任
平成17年6月 株式会社粟田建設に変更
粟田純徳社長就任と15代目継承
会社としても歴史がある事がわかりますよね、今では普通に会社と呼ばれていますが、江戸時代の前には会社という概念はなかったのでしょうか?
それぞれの人達が生きる上での身につけた職だけであり、会社としての考えはなかったのかもしれません。
石積みの技術は1000年以上前から続いているといわれていますが、「穴太(あのう)衆」は会社とは違い職人の集まりだった事が「株式会社 粟田建設」の歴史を見ても分かります。
演出界の職人技術も世界的!
400年を口伝えで!
「人生死ぬまで修行」と語っている「粟田純徳」さんでありますが、「穴太衆」の技術には、説明書やマニュアル的な物は存在しません。
それはなぜか?
ただ無秩序に積まれているような「野面積み」ですが、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技術があり、地震に強く、豪雨に備えて排水にも工夫が備わっている「匠の技」なのです。
石は自然なものなので同じ物がありません、その時々でどう合わせるかは、経験に基づいてしか設計出来ないのです。
場所や石によって頭の中で設計を変化させなくければならない事が重要で、書面にしたり図面に起こしたりする事に無理が生じてしまいます。
そのため、「石の声を聴く」と13代目の万喜三さんは言い残しています。
石を見る目を養う。どれだけ石を観察しているかが重要という。
そういった事が、ここ数百年の間、経験と口伝でしかこの技術を継承していけない理由なのです。
数百年続く石垣が今後更に何百年も続いていく為にも、「穴太衆」の技術を守って行かなければなりません。
いかがだったでしょうか?
全国各地にお城以外でも石垣を見る事があります。
現代ではコンクリートで作られたものがほとんどではありますが、一つ一つの形のちがった石を積み上げた石垣を見るとどのようなバランスで・・と感じた事もありました。
穴太衆の存在と「粟田純徳」さんによって少し石垣のあり方や技術がわかったように感じます。
今後のお城を見る時には、城そのものより、石垣の作りに注目していきます。
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
コメント